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メモ



僕は、小、 中、高校生時代に使っていた教科書を今でも持っていますし、今でも使っています。使っていると言いましても、読書用に充てている事が常なのですが。ただ、やはり何かしらを探求したいという衝動に駆られた時に、頼りになるのは教科書。或いは、当時使っていたノートであります。そこには、他者ではなく、自分自身の感情や思想が、形式が整っていないとは言え、直球に記されており、非常に重要な足がかりとなる訳です。

しばらく前、友人に「そういえば、~(友人の名前)は、教科書ってまだ持ってる?」と尋ねたところ「もう捨てたなぁ、卒業式に全部処分した。」と返されました。「もったいなくない?」と友人に聞き返してみたところ「え?なんで?使わないんだからいいんじゃね?」と即答されました。

使っていないから、捨てる。この理屈は非常に合理的であります。また、友人の潔さに若干の羨ましさをも覚えます。しかしながら、教科書、或いは学校教材に至っては、僕は捨てるべきではないと思うのです。

各教科書には各学問において、トップクラスの能力を持つ人間達の知識や知恵がアウトプットされています。しかし、そんな崇高な人間達が書き記してしまったが故に、大多数の精神的そして経験的に未熟な少年少女の目には、教科書はまるで『古文書』の如く映る訳であります。

本来であれば、小中高の間に、『古文書』に関する基礎知識及び予備知識を学び、晴れて大学という研究機関にて、それら『古文書』の解明・考察作業を行っていく訳でありますが、残念な事に、大抵の人間は、解明・考察作業に至る前に、知識の習得のみで満足してしまう、或いは、放棄してしまう事が多いのではと思わざるを得ません。だがしかし、それは決して悪い事などではなく、むしろ自然であり、又それらの感情や行動を咎め、罵り軽蔑する事など誰にもできやしまいのです。

ただですね、私欲を露わにするのであれば、せめて教科書だけは捨てないでほしい。例え現段階において、教科書が必要ないと感じても、きっと、いや必ず役に立つ時がきます。

教科書は、いわゆる文庫本等と違って、各個人及び集団の思想よりも客観的かつ事実である公平性に重点を置き記された貴重な文献であると僕は考えます。小中高の段階では、「とりあえず」教科書に記された事を事実として受け取る訳ですが、卒業と同時に、それらの知識への追求或いは探求にシフトチェンジする訳であります。その際に教科書が手元に無いとなると、「何を事実として教わってきたか」の手がかりを見失ってしまうのではと危惧している訳です。
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