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所持しているぬいぐるみから今の『若者ツイッターユーザー』(ネットの住民)について記したんだけど相変わらずイミフな記事になった。


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さて問題です。あなたはこちらのぬいぐるみを見てどう思いました?
汚い?えぇそりゃそうです。十数年も我が家で過ごしてるもんで、そりゃ汚くもなります。

どう思いました?なんて聞いちゃうとあたかもあなたの意見それ自体を求めているかのように受け取られてしまいますが、残念ながら違うのです。ごめんなさい。

こいつら全員に共通している事が「ドナルドダックのぬいぐるみ」ってことです。だけども僕はそうは思えないんですね。右から順に「めっちゃん」「けっちゃん」そして一番左こそが「ドナルドダック」なのです。

意味が分からない?ええごもっとも。我が家ではこいつらを、そしてアヒルを基本的にめっちゃんと呼びます。一番の古参がめっちゃんで、僕が幼稚園時代に知り合いのおじさんにプレゼントしてもらったやつです。なんでめっちゃんなのかというと、目がかわいいからめっちゃんなのですが、正直なところ今の僕にはそのネーミングセンスに対してあまり理解を示せません。目がかわいいからめっちゃんって哲学的腐臭すら漂います。

さてぬいぐるみの紹介はここまでにしておいて。今回気になった事がタイトルにもあります通り「若者ツイッターユーザー(ネットの住民)」って、この「ドナルドダックのぬいぐるみ」を愛称で呼ぶ(認識する)事と似てない?っていうなんともまぁ無理なこじつけなんですけども。

お前は何を言ってるんだ?状態だと思いますんでいつものようにあーだこーだ書いていきますね。

ネットってものすごい数の情報が転がっています。だけどもよくよく考えたら一番大切な情報が欠けがちじゃないか?って思うんですね。ここで僕が「若者ツイッターユーザー」として「ツイッタラー」しなかったのは、まさにこれから僕が言わんとすることが彼ら彼女らにどんぴしゃりだから。

例えば、あなたがフォローしている人で「家族や信頼のおける居心地の良い友人よろしくな程の『何か』」を『本能で』感じ取れる人」ってどれぐらいいます?そこまでいないんじゃないでしょうか?.そうでもないよって?フォローしている人達みんな仲良しだよ!!って?....んじゃその人とどれぐらい「近く」で過ごした事があります?実際に「会う」「会わない」ではなくて「過ごした時間と密度」です。

ここでの『時間』はつまり、ロマンチストなアインシュタインのロマンティックな相対性理論としての『時間』であって、事実としての物体としての時間を指している訳ではありませんのでご注意を。
んでもって、例えばその人が特に自分に対して著しいほどの裏切り・冒涜屈辱的行為をした訳でもないのに、少しでも自分の気に入らない要素を見つけて、これまでとは打って変わって嫌悪を抱いたり距離を置こうとした・置いた事ってどれぐらいあります?

または、フォローしている・知り合い程度の関係でもない人(団体やモノゴトに対して)が、自身の経験論に基づいてその人(団体やモノゴト)が「~であるに違いない」って批判(ルサンチマンとどこか歪んでそれでいて物悲しく虚しい正義心が働くこと)する事ってどれぐらいあります?

お恥ずかしながら僕はよく知りもしないものに対しての批判をしょっちゅうしています。ここ最近多いdisが『東京』『労働』『女子大生』に対するものが多いですね。だけども僕のこれらのモノゴトに対するdisってちょっとニュアンスが違うんですよね。

僕の場合もうちょっとタチが悪くて『よく知りもしない何かを否定(批判)する自分自身を、心のどこかでニヤニヤと眺めながらそれらの行為を行っている』んですよね。ちょっとややこしいですかね。んならたとえ話を。

いわゆる『普通』の人達が『よく知りもしない相手に対して~だと決めつける様』を一次的とするならば、僕の場合は二次的とします。それはつまり、一次的な人達が『犯罪者』だとするならば、僕は『映画や舞台における犯罪者役』でありつつそれを眺める観客もといは「評論家」でもある。という事です。

だから僕は(何かしら『真面目』に)意見を物申す時は、今回の記事のように『ツイッターユーザー』と『ツイッタラー』をあえて使い分けるのです。『ツイッターユーザー』とはつまり一次的な人、『ツイッタラー』とは二次的な人。人間誰でも感情的になるものですが、そこでそのまま感情に身を任せて『一次的』に発言・行動(ツイート)してしまうのか、ちょっとクールダウンさせてその感情をユーモアに転換出来ないものかと策を練るのか。これらの違いが『ツイッターユーザー』と『ツイッタラー』の違いだと僕は思っています。

とりあえず僕自身の話は置いといて。先のぬいぐるみの話は「僕の家ではこれらのぬいぐるみは『ドナルドダック』ではなくて『めっちゃん(愛称)』として認知している」訳でございます。つまりこれはひねくれた例えをすると「ドナルドダックではないと決めつけている」訳です。事実として僕はこれらのぬいぐるみを、「ぬいぐるみだと認めて」も「ドナルドダックだとは認めない」んですよね。

話がだいぶ長くなりましたあしからず。ツイッターユーザー(ネットの住民)達、特に若い人達って、どうしても「自身の中で『悪』だと判断したものに妥協を許せない、許したくない」って気持ちが高いのだとTLを眺める度にぼけーっと思います。だからよく知りもしないモノゴトに対して『正義感』が先走りしてしまって、結果的に感情に則った要素を多く含むツイートをしてしまうんじゃないかと。それはとても人間らしくて、人間臭くて、味があるとは思うのですけれども、なんというかそういう人達ってどこか孤軍奮闘的な息苦しさを募らせているようにも見えて時々胸がちくりとさせられてしまいます。

一昔前の「匿名」で人々が集っていた時代はもはやもう終わって(いまだ活動している『クソコテ』さんもいるにはいますが、そこにはやはり美学がある。先の話で言うならば二次的な思考に則っているのですが)、ネットでの名義を新たに創造し、自分の分身でつまり「実名」で何かしらを主張してゆくこのTwitter時代。

まだTwitterが「ミニブログ」としての性質がメインだった時代は「ネットでの自分をどう創り上げてゆくのか」というエンターテイナーよろしくな、ユーモアを軸とした思考が根本にあったのでしょうけども、今じゃTwitterはTwitterとして認識され、感情それ自体をぶつける場所と化しています。感情と感情が熱いパトスを交わす時ほど外野として眺めていて面白いのもまた事実なんですけど、その渦中・火種にある、つまりは一次的な人々達はきっと疲弊してしまう・しまっているのではないかとまたしても胸がちくり。

モハメッドアリはあくまでリング上でのフェアプレーに則って戦い、同じ「戦い」である戦争には断固反対したと聞きます。それはつまりアリが「ボクサーとしての自分」をメタ的に(二次的に)充分理解しているということでもないでしょうか。

さてさて、僕は冒頭らへんで「大切な情報が欠けがちじゃないか?」としました。
この情報とはつまり、相手個人に関する情報です。
「相手がどんな趣味を持っているのか」とかそういう情報です。
先に話しました「若いツイッターユーザー」ってそれら情報を集めようともせずに、それでいてユーモアを付加させようともせずに、まさに一次的な発想で相手は「~に違いない」と決めつけちゃう。だから余計疲れちゃう。

もし「どうしても許せない。人生で2番目ぐらいに許せない。某スカッとなんちゃらに応募したらお題にしてくれそうなぐらい大多数の他人からの協賛を得るぐらいに許せないっ!!」って自信があるならばもう「~に違いない」って判断してもいいとは思いますが。

だけども大抵の。それでいてネットでの出来事の大半って、あなたに実際のところ害はない事が多いですよ。
もうアホらしい事にカッとなって不毛にすらならない時間を消耗するのやめませんか?
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