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密着!帰宅部24時という神漫画と思い出とあれこれ考え事


最近はてんでこういった「web漫画」を読まなくなってしまったのですが、しばらく前、いわゆる青春時代とかいう時期にそれはそれは読み漁っていました。

そんなweb漫画の中で「特別」に記憶に残ってるエピソードがございまして、そいつが「第15話 しゃべり場」ってやつです。

第15話 しゃべり場 密着!帰宅部24時
http://kitakubu24.jpn.org/kitaku015.html

話を大体まとめると「いじめってどうなの?」って話なんですが、主人公=師匠は思います。

なんでいじめの『責任』を考えているんだ?
『原因』ならまだしも、『責任』ってなんだ...!?

これは読んでる当時こそそこまで気にしていなかったのですが、今になって考えてみるとなかなか鋭い観点だなぁと。

一概には言えませんが、テレビやラジオやネットやら。いろんなニュースが流れてくるんですけど、何かしらの「問題」に対してなぜそうなったのかという「原因」を重点に置かないで、何に(誰に)責任があるのか?という目的を主とする傾向にあるのではないかと、先のweb漫画のエピソードが脳裏に浮かんでは僕に語りかけてくる事がそれはそれはよくあります。

そりゃね。問題の内容によっちゃ、責任が重大になることもあるんですけどね、責任を取らせるだけで済むなら簡単なんですよね。だから人はその問題が再発しないようにと、なにかしら策を練らんとする訳ですが、その策の根本に「どこに責任を負わせるか」があっちゃ、再発防止もクソもないのではと思ったり。

この漫画ではいじめ問題を軸に取り上げていますが、いじめも同じでして「いじめられた本人」は「いじめた本人(複数であれ単数であれ)」に対して責任を取らせようとする。そりゃそうですわ。本人はなーんにもしてないのにいじめの対象になるんですもん。そうなると「客観的」ではなくて、「主観的」になりやすい。自分をいじめたあいつが憎い。あいつに一泡吹かせてやりたい。

でもそれじゃ結局のところ意味ないんですよね。いじめた本人はたしかに悪いんですよ。でもなんでいじめたのか考えさせなきゃならない。というかそれを判断できるならばそもそもいじめていない。(わかっててやるならそれはそれでダークな性格な訳ですが)だったらいじめた本人をただ怒るだけじゃ意味がない。なんでいじめてしまったのか?なぜいじめがダメなのか?いじめた本人に何か精神的な不安要素がないのか?とかいろいろね。

いじめられた本人のサポートも大事なんですけど、なんというかね、やっぱりいじめた方も入念で「特別」なフォローが必要なんじゃないかなぁと。あんまりこういう事は言いたくないんですけどね、僕もはるか昔いわゆるいじめってやつの対象になってた事がありましてね、中学時代は本当毎日楽しくなかったんですね。

だけども、中学を卒業して高校生になって環境がまるっきり変わって「学校って楽しいなぁ」と心から思えるようになった時、ばったりとある駅のホームで中学時代に僕をいじめていた本人と出くわしたんですよね。そしてらそいつ、表情がものすごく死んでまして、直感的にこいつもしかしたら...って感じとってしまいました。いじめって負の連鎖というかカルマというかそんなのがあるんでしょうかね。

ただちょっと関係なにんですけども、その時僕が思った事って「こいつ大丈夫かなぁ...」だったんですね。中学時代の僕なら「この野郎、絶対許さねえ」だったんでしょうけども。環境の変化ってすごいなぁと哀しいような嬉しいような...。僕の場合はいじめって言ってもちょっかいかけられたり、腹パン程度ですけど、もっと酷い人なんか山のようにいるわけで。そんな人からすれば僕の言ってることなんてへでもないでしょうが。

さてさて。物事を考えるときに責任を中心にしていると、次第に身も心もそして未来さえも真っ黒になってしまうなぁと最近思います。どちらかというと今の僕の生活状況って中学時代の再発に近く、毎日沈んでいるんですよね。なんでそうなったかは面倒なので省きますが、今の生活状況において僕の思考の根底にあるのはやっぱり「責任」なんですよね。加えて補足すれば「責任&罪」みたいなセット。だけどもこの思考じゃ、先にも言いました通りに(そして中学時代の僕のように)「~のせいだ」(その対象が自分であれ他人であれ)と歪んでしまう。ちょっとつらい事があったなら、ちょっとやってられない事があったなら「どうしてそうなったのか」ただそれだけを考えてみる癖をつけておくのが、自分のためにもいいんじゃないかなぁて思うんですけどね。

なんかの記事でも書いたんですが、考えるだけじゃ見つめなおすだけじゃ「解決」にはならない。って思いがちで、結局なにも出来なくなってその場しのぎでやり過ごして、それがツケとなって後からさらに大変な事になってしまう。なんでツケになっちゃうかと言えば、大元をたどれば「何かが出来ていない」「何か確実な方法があるんだけどその方法になかなか踏み切れない」ってのが常な訳で。「考えてみる」「見つめなおす」ってのは、これら「わからないこと=何かが出来ていない」「わかっていること=何か確実な方法があるんだけどその方法になかなか踏み切れない」という二つの事実をまず受け止めて、認めてあげる事なんだと思います。だけどもなかなか認められない。すぐに認めてあげれるならばそもそもここまで状況は悪化していない。だからこのプロセスは人によって長い時間が必要となるんですよね。つまり「考える」「見つめなおす」って行為に端から「即効性」を求めるから上手くいかない、無駄だと諦めてしまう訳でして、最初から時間がかかるものだと捉える姿勢が必要です。

ところがどっこい。世の中ってそう簡単なものじゃないっすよね。人間って一人で生きている訳じゃなくて、必ず誰かしらが傍にいる。この傍にいるってのは「つらい時でも私がいるじゃない!っていうお涙頂戴よろしくな話ではなくて、事実として傍にいる訳です。例えば家族とか配偶者とか恋人とかいろいろ。となると先の話に戻って「何かを解決するためには時間が必要なんだな」と訴えるとしましょう。したら大抵こう言われる訳ですよ「あんた一人で生きてるんじゃない。あんた以外にも人がいて、あんたの為に時間をお金を割いてる人がいる事を忘れるな」「こっちだってしんどいんだよ?お前ばかりが辛いと思い込むな」みたいな感じで。

こういう人達の言うことはごもっともなんですけどね、彼ら彼女らってこのスピーディーな社会に特に支障なく順応している場合が多いんですよね。ところがどっこいその流れについていけない、つまりは社会不適合者って人は困ってしまう。スピーディーな社会だからこそ「即効性」が求められる訳ですが、スピーディーな社会になかなかついていけない人たちはその「即効性」にすら上手く馴染めない。

こうなると両者の間で溝が深まって、片方は抽象的に(それでいて本人は具体的だと思い込んでいる)「なぜ出来ないのか?」を訪ねてくる、もう片方は「なぜ出来ないのだろうか?」と責任を通り越して罪を問われている如く息苦しくなる。そするとその息苦しさから逃れる為に違う何かにもまた「責任」を押し付けんとする。次第に泥沼から抜け出せなくなる。

こういった状況を避ける一番良い方法があります。それは第3者の介入です。どちらの意見も「平等」にくみ取り、両者の意見を上手く調合してくれる人です。そういう訳で精神科医さん達は受診を促すのだろうと思うのですが。


毎度の如く支離滅裂な文章になりましたが、まとめると責任を感じつつ原因も探る姿勢だけは諦めないでほしいよって話です。

あ、ちなみに帰宅部24時ではスマブラ回も好きです。
暇なら読んでどうぞ(なげやり)

第19話 スマッシュ24時 (1/2)
http://kitakubu24.jpn.org/kitaku019.html
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